人名
| 注記 | 雑誌 |

ジュレ, ヘルマン

上等兵 第7中隊 海軍歩兵第3大隊

注記 

Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, bei Schiffsmodellen (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 563).

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

(1882-1962)
海軍歩兵第3大隊第7中隊・上等歩兵。
[建築家]。板東時代、工芸品展にアードラー(Adler)と縮尺25分の1の橋を制作・出品した。妻と子どもは大戦終結まで済南で暮らした。1901年(あるいは1902年)に膠州に赴き、要塞の建設及び山東鉄道の敷設に従事した。1908年1月9日、青島で結婚した。1912年10月、ドイツ帝国の皇弟ハインリヒ・フォン・プロイセン王子が青島を訪問した際、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで歓迎の式典が執り行われた。その折の記念写真をあしらった絵葉書でジュレは兄弟にはがきを出した。記念写真には白い服を着た王子とマイアー=ヴァルデック総督を中心にして、総勢50名ほどが写っている。ジュレは王子のすぐ左隣に立っている。そのはがきの文面は次の通り。「親愛なるアルフレート!ヘルゴラント島からの便り有り難う。元気な様子なによりです。裏面の写真は、陸海軍合同のハインリヒ・フォン・プロイセン王子歓迎式典の時に写したものです。これ以外には特に変わったことはありません。ヘルマンより」【以上、ジュレの足跡に関する記述は、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。妻メタン(Metan)は娘(11歳)と大戦終結まで済南で暮らした。テューリンゲンのシュロイジンゲン出身。
(2083:丸亀→板東)

雑誌 

1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

第25号 1918年3月17日  (第1巻 1917年10月~1918年3月:第1号 1917年9月30日~第26号 1918年3月24日)