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演劇

板東における演劇

 
 
舞台、小道具、衣装組織と上演計画入場券販売と価格制度プログラム「美術工芸展覧会」

板東への収容所移設にともなって、状況は著しく改善された。初めの頃は適切な場所がなく、板東収容所での初の上演作となったH・ズーダーマン『名誉』は、バラック第1棟とバラック第2棟の間に建てられた臨時の舞台で演じられなければならなかったし、翌月のシラー『群盗』の上演は野外劇に切り替えられた。しかし捕虜のズーアがバラック第1棟の東部分に舞台を建て、そこでは1917年8月にアンツェングルーバー『良心の呵責』がこけら落としとして上演された。仕切り壁が取り払われて5番から8番までの部屋が一つにされたので、音楽や講演の催しにも利用できる大きな空間が出来た(1)

 
 
 

バラック第1棟の劇場 両側の壁は撮影のために開けられたが、普段は閉まっていた. Pörzgen, Hermann. Theater ohne Frau. Das Bühnenleben der kriegsgefangenen Deutschen 1914-1920. Königsberg: Ost-Europa-Verlag, 1933, Abb. 15

コンサート時の観客席. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号99-16

 
 

バラック第1棟の外風景. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号82-17

1918年の『新聞記者』上演の際に、照明係エンゲルの手になる新たな照明装置が初めて使用された(2)。改装や状況の改善が後にもさらに推し進められたことを、劇場委員会の報告が示している(3)。電力会社との交渉の結果、照明にかかる費用は軽減されることになり、また収容者たちからの借金で観客席が改良された。劇場委員会は資金提供者たちへの謝辞でこう述べている。「進んで協力しようという雰囲気が、必要な物資の購入を可能にしてくれました。これは、俳優、および演劇に参加する全ての人々に対して収容所全体が心からの感謝を抱いている証しです。演劇のために費やされた労働と努力、そして上演の優れた出来栄えに感謝しているのです」(4)

舞台美術に関しては、例えば収容者の所有している私服も衣装として利用されたし、上演のために特別に衣装が仕立てられることもあった。そして、衣装のみならず、小道具と舞台装置に関しても、坂東の収容所の作業場には全く新しい可能性が開けていた。上演の様子の写真と、『ディ・バラッケ』の最終号(5)に収録された舞台装置のイラストの数々から、収容者の中の演劇好き達が示した参加意欲と熟練の技術がうかがわれる。

 
 

板東では、統合される以前の収容所からのグループが合併して新たなチームを作ることも部分的にあった。以前の劇団主催者たちはみな板東でも活動した。例えば『良心の呵責』、『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、そして『ヴァレンシュタインの陣営』などいくつもの作品が板東でも再上演された。ときには複数のグループが協力して舞台を作ることもあり、例えば『エグモント』(6)や『社会の柱石』(7)の場合がそうだった。『板東俘虜収容所案内記[ママ、正誤:アドレスブック]』には、演劇団体のリストが掲載されている。

  • 海軍砲兵大隊のホルトカンプ組
  • 第6中隊の劇団
  • 海軍砲兵大隊のブランダウ組
  • 丸亀・松山の劇団
  • 山越の劇団

 
 

『坂東俘虜収容所案内』は、演劇組織についての情報をのせている。「演劇。総責任者R・ゾルガー予備少尉。上演あるいは講演の申請は彼に対して行うこと。 劇場委員会。シュリヒティガー機関士、リスマン上等歩兵、ケーニヒ海軍2等歩兵、シュタインフェルト海軍2等歩兵、フェルヒネロフスキ上等歩兵、アーベライン海軍2等歩兵。当委員会が鑑賞券の販売を統率し、収容所住民の要望や提案を劇団指導部および個々の劇団に伝達する。」(8)1918年11月には、ゾルガーからR・マルティンへと演劇総責任者の座が引き渡された(9)

上演計画で目を引くのは一連の喜劇(『ペンシオン・シェラー』、『二頭のあざらし』など)で、これらは俘虜生活での気晴らしを提供すべく企図されたと、『ディ・バラッケ』の講評で述べられている。『白馬亭にて』の上演については、次のように書かれている。「滑稽な場面のすべてが、感謝のこもったたくさんの笑いを誘った。そしておそらく誰もが、 このような笑いがわれわれにとってとても価値があるということを、自分自身で感じたことだろう。」(10)しかし、真面目な作品への取り組みもみられ(『ラーベンシュタインの女』、『ヴァレンシュタインの陣営』など)、これも同様に観客から高い評価を受けた。ときには、劇作品に関する入門講義が開かれたり、上演の前に入門的な記事が『ディ・バラッケ』に載せられたりもした(『ミンナ・フォン・バルンヘルム』や『こわれがめ』など)。多くの場合、収容所のオーケストラやその一部が劇に参加し、上演の際に幕間の音楽や序曲を演奏した(『じゃじゃ馬ならし』、『アルト・ハイデルベルク』など)。

演劇上演の告知は、中心的な通信機関である『板東日刊電報通信』(『Täglicher Telegrammdienst Bando』略称T.T.B.)を通して行われた。通常は50銭での上演で、10銭の場合もよくあった。人形芝居の場合には、高くて30銭、安ければ10銭で上演された。50銭切符の購入者数は限られていて、将校やその他裕福な俘虜たちしか買わなかったので、この切符は印刷所や酒保や図書室で直接販売された。10銭切符に関しては、需要の把握を容易にするために注文リストが作られた。各バラックに一人ずつ切符販売人が置かれ、注文リストを管理して集金を行った。『白馬亭にて』や『ペンシオン・シェラー』の場合のように、切符販売量に応じて追加上演が決められることもあった。

 
 
 

『ラーベンシュタインの女』の宣伝. T.T.B. Bd. 3, 19. Februar 1918, S. [4]

 

上演の際には、技巧を凝らしたプログラム冊子が収容所内の印刷所で製作された。これは当時からすでにコレクションの対象として見られていたことが、『ディ・バラッケ』の「収容所漫筆」欄からうかがわれる。「それにこのプログラムは、俘虜生活の中での数少ない明るい面へのすばらしい記念になるし、意匠の芸術性もすばらしい。これは 、素人にはそのありがたさが分からないだろうが、 収容所の印刷部で使える限りの道具を使っての仕事のである。」(11)1918年6月から印刷物を収容所の外に送付することが禁じられ、劇場およびコンサートのプログラム販売は大きな打撃を受けた。コラムの作者は読者に向けこう警告する。「このことは、必ずしも小さくない出費をカバーするために、この売り上げを頼りにしている芸術家たちにとって非常につらいことである。どの人もプログラムを買う銭で一杯のビールを飲む方がいいと結論する前に、このことを考えるべきであろう。」(12)

1918年3月に開催された美術工芸展覧会では、劇団員たちが展示場の一角に陣取った。その様子について『ディ・バラッケ』ではこのように書かれている。「演劇 (...) に当てられた部屋に入ると、またもやたくさんの 喜ばしく楽しい時間が思い 起こされる。これも、出品 してくれた演劇グルーブのお陰である。古くからの知り合いが、 「 ペーター・スクヴェンツ」「ミンチ・フォン・バルンヘルム」「 ユスト」「カト一ガン夫人」等々の衣装で挨拶してくれる。
女性の助けもなく、専門の仕立屋もいないのにどうしでこのようなものが作れるのか、 ただただ驚くばかりである。人形芝居風にしつらえられたいろいろな 演題一つ一つの部屋の小さな模型は、外からの訪問客におよそ次のような思いを抱かせよう。喜劇の女神ターリアは 収容所のわれわれの所にも心地よく一それどころかきっとわれわれ 戦争俘虜自身よりももっと心地よく一住んでおられるのだと。
舞台衣装と小道具の他に、定評のある収容所芸術家の一人がマリオネット虜場 (...) を出している。できれば近いうちに、収容所でその上演を楽しみたいものであ る。芸術的な技巧をこらした人形の頭を、とくに推奨しでおこう。」(13)

 

1918年3月の「美術工芸展覧会」でのマリオネット用舞台. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号52-37

 
 

(1) Die Baracke Bd. 1, No. 2, 7. Oktober 1917, S. 14-20
(2) Die Baracke Bd.1, No. 2, 7. Oktober 1917, S. 16
(3) T.T.B. Bd. 3, 24. Februar 1918, S. [4]
(4) T.T.B. Bd. 3, 24. Februar 1918, S. [4]
(5) 『ディ・バラッケ』 第4巻、1919年9月
(6) Die Baracke Bd. 3, No. 21 (74) 23. Febr. 1919, S. 462-467
(7) Die Baracke Bd. 4, Juli 1919, S. 46-55
(8) Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando, Japan. 1918, S. 53
(9) T.T.B. Bd. 5, 9. November 1918, S. 3
(10) 『ディ・バラッケ』第3巻第25(78)号1919年3月23日p.384
(11) 『ディ・バラッケ』第2巻第16(42)号1918年7月14日p.303
(12) 『ディ・バラッケ』第2巻第16(42)号1918年7月14日p.302-303
(13) 『ディ・バラッケ』第1巻第25号1918年3月17日p.338