板東収容所のバーチャル・ツアー
8. 第2厨房、穀類倉庫、収容所製パン所
| 第2厨房
| 収容所製パン所と穀類倉庫
第1厨房、第2厨房ともに下士官兵用の厨房であった。第2厨房を管理していたのは炊事下士官のF・フムピヒであった(1)。建物の中には本来の厨房のほかに浴室もあり、これは合唱団やオーケストラの練習場としても用いられた(2)。捕虜たちはこの厨房で収容所当局から提供された食材を用いて自分たちで調理をし、出来上がった食事はバラッケで分配された。1919年になると規則がより緩やかなものとなって、櫛木海岸など海辺への日帰り遠足が数多く行われるようになったが、このとき第1厨房、第2厨房はともに焼きソーセージ、ウィーナーソーセージ、ポテトサラダなどの予約注文を受け付け、目的地の海岸まで配達した(3)。
大量の食材を調理する準備をしなければならないことから、食事の調理には捕虜たちは全員で参加することになっていた。なかでもジャガイモの皮むきは収容所で人気のない仕事であった。『ディ・バラッケ』には以下のような記述が載っている。「例えば朝早く、コーヒーを飲んだ後で戦友たちが嫌そうな顔をし、抜き身のナイフを持って厨房へ向かっているのを見かけると、『短刀で何をしようというんだ?話せよ』などと聞いたりしなくても、初めから答えは分かるのだ。『じゃがいもの皮むきだよ、わかったか』と」(4)。「われらの日々の仕事」と題するスケッチも、ジャガイモの皮むきの模様を伝えている。
「われらの日々の仕事」. Muttelsee, Willy. Karl Bähr. 4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung. Bando: Kriegsgefangenenlager, [1919], o.S., 鳴門市ドイツ館所蔵蔵
食事の献立に捕虜たちのすべてが満足していたわけではないことは、次の逸話からもわかる。「1 週間前の土曜日、上の厨房の入り口に指ほどの厚さのジャガイモの皮がこれ見よがしに吊され、 その横に料理担当伍長の書いたメモがぶら下がっていた。『兵卒食堂[兵員用厨房を指す]がたびたび提供してきた皮付きゆでじゃがに全然納得していただけない第33、34、35班のやかましやの方々へ、謹んで供覧いたします。』」(5)ジャガイモを皮付きのままでゆでれば、皮をむく時にジャガイモの身が損なわれ、分量が減ってしまうということがない。そのために皮付きゆでジャガイモは、献立にしばしば登場したのである。
1918年8月の初め、久留米より84名の捕虜たちが板東へと移送されてきた(6)。これ以後、第1,第2の両厨房では食事の配給量が少なすぎるという苦情が相次ぐことになった。これに対して、厨房の監督にあたっていた炊事下士官らは、捕虜の食事用に提供された食材の一覧表を『日刊電報通信』に公表した。これによると、一部の食材は久留米からの俘虜の到着の前に比べると、たしかに供給量が減っている。また、この表はどのような食材から兵食が作られていたのかを明らかにしてくれる(7)。
品名
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1918年7月21-27日の配給量(久留米からの捕虜84名の到着以前) |
左の配給量から計算した、久留米からの捕虜の分を含む配給量 |
1918年9月8-14日に実際に支給された量 |
パン
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826 貫 |
903 貫 |
826 貫 |
ジャガイモ
|
1360 貫 |
1485 貫 |
1200 貫 |
牛肉
|
165 貫 |
180 貫 |
170 貫 |
豚肉
|
45 貫 |
49 貫 |
40 貫 |
魚 |
48 貫 |
52 貫 |
45 貫 |
米 |
180 升 |
197 升 |
190 升 |
キャベツ |
120 貫 |
131 貫 |
45 貫 |
エンドウ豆 |
18 貫 |
20 貫 |
18 貫 |
豆類 |
% |
% |
16 貫 |
小麦粉 |
32 貫 |
35 貫 |
18 貫 |
砂糖 |
18 貫 |
20 貫 |
5 貫 |
塩 |
28 貫 |
31 “貫 |
28 貫 |
茶 |
28 箱* |
31 箱* |
14 箱* |
タマネギ |
35 貫 |
38 貫 |
28 貫 |
料理用バター |
21 貫 |
23 貫 |
21 貫 |
酢 |
4 瓶 |
4 1/2 瓶 |
4 瓶 |
生クリーム[と推定される] |
21 升 |
23 升 |
21 升 |
* 1 箱は60匁に相当
日本の重量および容積単位の換算: 1 貫= 約3.75 kg 1 匁= 約3.75 g 1 升= 約1.8039 l
おそらく収容所製パン所の内部. 『大正三四年戦役 俘虜写真帖 Vues photographiques concernans les prisonniers de guerre au Japon (Campagne de 1914-1916) 』 東京、俘虜情報局、Bureau Impérial de Renseignements sur les Prisonniers de Guerre、1918。鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号30-32
収容所製パン所が製造したパンは配給食の一部として下士官兵たちに分配されていた。それ以外にも製パン所は小型の白パンや、その他の大型パンを作って販売していた(8)。小型の白パンを前もって予約して定期販売を行い、それらを配達させたり(9)した。遠足の際には、大小のパンを前もって注文することもできた(10)。この収容所製パン所は複雑な経緯をたどって設置された。当初は製パン所を清潔に保つための資材が乏しかったので、「パンの外見が不潔であることへの苦情」が絶えなかった(11)。しかし、この問題は時間が経つにつれ解決した。
穀類倉庫は「製パン所材料保存庫」(12)あるいは「製パン所倉庫」(13)とも言われていた。その名称からわかるとおり、製パン所のための貯蔵品の倉庫である。そのほか、各分隊に支給されるパンの受け渡しもここで行われた。平日は17時から17時30分、日曜日は11時から11時30分が、受け渡しの時間であった(14)。
「われらの日々の仕事」から:パンの配給. Muttelsee, Willy, Karl Bähr. 4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung. Bando: Kriegsgefangenenlager, [1919], o.S.、鳴門市ドイツ館所蔵
「焼きたてパン!」. Muttelsee, Willy, Karl Bähr. 4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung. Bando: Kriegsgefangenenlager, [1919], o.S.、鳴門市ドイツ館所蔵
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