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人名
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注記 |
雑誌 |
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マイスナー, クルト |
予備役海軍歩兵隊卒 第6中隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, fungierte als Dolmetscher (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 579).
Übersetzte das Buch „Japanische Erdkunde", gedruckt von der Lagerdruckerei Bandō (vgl. „Die Baracke“ No. 18 (44) vom 28. Juli 1918).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
(1885-1976) 海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。 〔イルチス砲台〕。父親はハンブルクの出版社主で、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られるオットー・マイスナーであった。ハンブルク大学で学んだ後1906年、ジーモン・エーヴェルト商会の日本駐在員として来日、20歳だった。滞日8年余の時点で応召し、日本の最後通牒が発せられた8月15日に青島に到着した。日本語は堪能で、当初は松山の大林寺に収容され、そこの収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松江所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』、『日本日常語授業』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、神田伯竜の講談で知られた『阿波狸合戦』等を独訳し、他に『日本におけるドイツ人の歴史』の著作もある。1920年から1945年まで25年間、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)の指導的な地位にあった。1963年秋帰国して、郷里ハンブルクに帰った。 (3025:松山→板東)
雑誌 1918年07月28日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年02月02日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年03月01日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年01月25日: 日刊電報通信
1919年01月30日: 日刊電報通信
1919年02月11日: 日刊電報通信
1919年02月12日: 日刊電報通信
1919年04月11日: 日刊電報通信
1919年04月22日: 日刊電報通信
1919年09月19日: 日刊電報通信
1919年09月22日: 日刊電報通信
1919年09月27日: 日刊電報通信
1919年10月01日: 日刊電報通信
1919年10月07日: 日刊電報通信
1919年10月18日: 日刊電報通信
1919年11月15日: 日刊電報通信
1919年11月27日: 日刊電報通信
1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年07月22日: 日刊電報通信
1918年07月24日: 日刊電報通信
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