注記
Veranstalter der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 545).
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, als Zeichner (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 556).
Einer der Gewinner beim Frühjahrs-Tenniswettspiel 1918 im Lager Bandō (s. "Die Baracke" No. 11 (37) vom 9. Juni 1918).
Wurde bei Neuwahl des Krankenkassenvorstandes September 1918 gewählt (vgl. „Die Baracke“ No. 20 (73) vom 16.02.1919).
3. Platz beim Wettgehen im Lager Bandō am 17. April 1919 (s. "Die Baracke" vom April 1919, S. 130-131).
Teilnehmer des Wettgehens am 10.12.1919 (s. Progammblatt des Wettgehens, Signatur E 1-4).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
海軍歩兵第3大隊第2中隊・後備伍長。 [商社員]。 板東時代、1918年3月8日から19日の「展覧会」の主催者役を務めた。また9月には「板東健康保険組合」の第2中隊代表理事に選ばれた。板東ホッケー協会のチームのメンバーでもあった。大戦終結後は再び山東省済南に戻り、カルロヴィッツ社(Carlowitz & Co.)の済南駐在代表に復帰した。しかしその時すでに山東省では、ドイツに代わって日本の影響・支配が広がっていて仕事はほとんどなかった。 (1859:丸亀→板東)
写真 [1919年4月の競歩大会の写真]:ゼッケン42番がゴールしたところ Sportprogramme 競歩大会 板東俘虜収容所 日本 1919年12月10日 競歩大会 1919年4月15日 雑誌 1919年02月16日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年03月07日: 日刊電報通信
ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年06月09日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1917年09月14日: 日刊電報通信
1917年10月06日: 日刊電報通信
1917年10月08日: 日刊電報通信
1917年10月12日: 日刊電報通信
1917年10月15日: 日刊電報通信
1918年02月05日: 日刊電報通信
1918年02月14日: 日刊電報通信
1918年03月20日: 日刊電報通信
1918年03月22日: 日刊電報通信
1918年06月08日: 日刊電報通信
1918年07月29日: 日刊電報通信
1918年10月09日: 日刊電報通信
1918年10月10日: 日刊電報通信
1918年10月11日: 日刊電報通信
1918年10月13日: 日刊電報通信
1918年10月15日: 日刊電報通信
1918年12月13日: 日刊電報通信
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