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人名
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注記 |
Sportprogramme | 雑誌 |
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フィッシャー, カール |
予備副曹長 第6中隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
57. Platz beim Wettgehen im Lager Bandō am 17. April 1919 (s. "Die Baracke" vom April 1919, S. 130-131).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
(1881-1941):海軍歩兵第3大隊・予備副曹長。
[東亜ロイド新聞(ostasiatischer Lloyd)]。3月21日にベルリン郊外のシュテークリッツに生まれた。1897年始め、当時16歳のギムナジウムの生徒だったカール・フィッシャーは、ベルリン大学学生ヘルマン・ホフマンが主催する速記術のサークルに入り、同時にそのサークルが行っていたベルリン郊外の遠足に参加した。その年の6月、外交官となったホフマンの推挙でフィッシャーは遠足のグループ「シュテノグラフィア」の議長に選ばれた。1901年、そのグループは会員のヴォルフ・マイエンの提案で「ワンダーフォーゲル」(Wandervogel)と名づけられた。以後カール・フィッシャーの指導の下でワンダーフォーゲルは拡大の一途を辿った。しかし独裁的な運営からグループ内に反フィッシャー派を生んだ。1904年にグループは二つに割れ、フィッシャーは「古ワンダーフォーゲル」を結成した。1906年7月、フィッシャーは「ワンダーフォーゲル」運動から身を引き、同年10月海軍歩兵第3大隊に志願した。1年間の兵役に就いた後には、ハレ大学等で習得した中国語を活かして中国に留まる意図であった。1年後には当初の予定通り上海で新聞社に勤務したが、日独戦争勃発により応召して青島に赴いた。松山時代、公会堂で行われたシュトルツェ=シュライム方式の速記術講習会の講師役を務めた。板東時代、『バラッケ』に「1919年3月29、30日のスポーツと娯楽の夕べ」の記事を寄せている(巻数、年月日は不明)。また競歩大会では、敢えて年配組ではない組に出場して、85名中の58位でゴールインした。【山田『俘虜生活とスポーツ』48頁より】大戦終結後の1920年帰国したが最早「ワンダーフォーゲル」における地位も無く、寂しい晩年を過ごした。1941年6月13日、生地シュテークリッツで没した。
(2862:松山→板東)
Sportprogramme 競歩大会 1919年4月15日 LABEL_SONSTV [招待状:] 賞金および賞品つきボーリング競技 雑誌 ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年02月10日: 日刊電報通信
1919年07月18日: 日刊電報通信
ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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