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人名
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注記 |
雑誌 |
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ミュラー, ヴィルヘルム |
予備役少尉 野戦砲兵隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Veranstalter der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918).
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, bei Aquarellkopien, "Originale in Schwarz/Weiß", "Kopien in Schwarz/Weiß", "Japanische Zeichnungen", sowie Schiffsmodellen (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 557, 558, 560, 563, 581).
Entwurf für den Gedenkstein für die verstorbenen Kameraden (vgl. "Die Baracke" vom August 1919).
Reichte Urlaubsgesuch nach Tientsin ein (s. T.T.B. vom 08.11.1919).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
海軍野戦砲兵隊・予備少尉。
〔第3a中間地掃射砲台指揮官〕。松山収容所ではシュテッヒャー(Stecher)大尉から日本語を習った。またB.モーア(Mohr)予備少尉とともにビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。板東では、公会堂での絵画と工芸品展覧会にモノクローム画部門に「日本の風景」、その模写の部に「ヒンデンブルクの顔」等を出品した。また同少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーン(Hohn)2等砲兵の住宅モデルは、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。1918年8月に完成した「ドイツ兵墓碑」の設計を担当した。
(3015:松山→板東)
雑誌 ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年10月07日: 日刊電報通信
1919年11月08日: 日刊電報通信
1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1917年09月14日: 日刊電報通信
1918年01月05日: 日刊電報通信
1918年02月02日: 日刊電報通信
1918年02月05日: 日刊電報通信
1918年02月14日: 日刊電報通信
1918年02月19日: 日刊電報通信
1918年03月22日: 日刊電報通信
1918年05月25日: 日刊電報通信
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