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人名
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注記 |
Sportprogramme | 雑誌 |
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コップ, ヴィルヘルム |
海軍大尉 膠州海軍砲兵大隊 |
注記
Sollte Anfang August 1918 vom Lager Kurume ins Lager Bandō verlegt werden (s. T.T.B. vom 10.07.1918).
Wurde am 7. August 1918 vom Lager Kurume ins Lager Bandō verlegt (s. T.T.B. vom 27.07.1918).
Schrieb die Nachrufe für Hugo Johannes und Peter Körner im T.T.B. vom 07.02.1919.
11. Platz der Alten Herren beim Wettgehen im Lager Bandō am 17. April 1919 (s. "Die Baracke" vom April 1919, S. 130-131).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
海軍膠州派遣砲兵大隊・海軍大尉。〔会前岬砲台指揮官〕。
俘虜として日本に向かう折り、沙子口で輸送船薩摩丸に二匹のダックスフントを連れて乗船した。熊本時代の1914年12月19日、ヘレーネ夫人から同棲願いが出されたが不許可になった。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。1918年3月スイス公使宛に、独亜銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年8月5日、ガウル中尉、マイアーマン中尉等90名と板東収容所に配置替えになった。3名の夫人達は久留米を引揚げて、しばらく箱根で静養した。その後も皇帝から拝領したと称する犬と一緒で、板東まで連れていった。その犬は板東を描いたスケッチにも登場する。内一匹は収容所長松江大佐の息子にプレゼントされ、「太郎」の名を付けられた。【『日本人とドイツ人』64頁等】
(3467:熊本→久留米→板東)
Sportprogramme 競歩大会 1919年4月15日 雑誌 1919年02月07日: 日刊電報通信
1919年04月15日: 日刊電報通信
ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年07月10日: 日刊電報通信
1918年07月27日: 日刊電報通信
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