人名
| 注記 | 雑誌 |

マイアー=ヴァルデック, アルフレート

海軍大佐 総督府

注記 

In seiner Eigenschaft als Gouverneur verfaßte er das Schreiben betr. Kriegsentschädigungen, abgedruckt im T.T.B. vom 27.02.1919).

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

(1864-1928)
膠州総督・海軍大佐。
1864年11月27日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父クレーメンス・フリードリヒ・マイアー・フォン・ヴァルデック(Clemens Friedrich Meyer von Waldeck)はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授であった。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。大学で1年間歴史学を学んだ後海軍に入った。1908年に青島に赴任して1911年まで総督府参謀長を務めた。1898年にはヨハンナ・ナイと結婚し、1男2女をもうけた。1911年8月19日、トゥルッペル総督の後任として第4代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクであった。身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた。水泳と馬術がめっぽう好きであった。【《The Japanese Siege of Tsingtau》18頁より】1914年11月10日、モルトケ兵営において青島攻囲軍司令官神尾光臣中将と会見した。その折り神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍からこれまでに受けた指導に感謝の意を表し、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、また日本軍に多大の損失が出るほどドイツ軍の防備の優れたことを語った。これに対してヴァルデック総督は、日本軍の武勇を称えたと言われる。妻子は開戦後に北京に逃れた。11月14日、俘虜となるべく日本に向かった。それは奇しくも17年前に、ドイツ東洋艦隊が青島を占領した日と同じ日付であった。11月17日午前9時20分、御用船薩摩丸で門司港に到着した。服装は、黒の海軍帽、紺地にダブルの金釦を付け、四線の太い金線のある正服を着用。黒のネクタイを結び、同じ紺地のズボンに茶褐色の革の脚袢を着け、長靴を穿いていた。出迎えに来た旧知の山本茂中尉と面談した。今回で来日4度目、3年前の3度目の来日の際奈良で雷雨にあったと語った。【参照:総督の談話『東京朝日新聞』1914年11月18日付】福岡での収容宿舎は、福岡赤十字社支部であった。この建物は旧福岡藩時代の台場跡のあった洲崎海岸に在り、瀟洒にして広壮、眺望絶佳で玄海灘を望み、眼下に西公園、向かいは物産館、市塵を離れた所に在った。日本の大佐の月給に相当する280円を月俸として支給された。1915年1月29日、支給された給与から150円を大分収容所の俘虜のために寄付した。1918年3月25日、習志野に移送された。収容中に少将に昇任した。1920年3月25日、マイアー=ヴァルデック元総督等を乗せた帰還船南海丸は、残留していた最後の家族(150人)を乗せるため青島に寄港した。『青島の武装と包囲』(Bericht uber die Armierung und Belagerung)の報告書を残した。
(1635:福岡→習志野)

雑誌 

1919年02月27日: 日刊電報通信

1919年2月27日  (第6巻 vol.3 1919年1月1日~1919年5月31日)

1919年07月08日: 日刊電報通信

1919年7月8日 第83号  (第7巻 vol.3 1919年6月1日~1919年8月31日)

1919年09月23日: 日刊電報通信

1919年9月23日 第153号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月16日: 日刊電報通信

1919年10月16日 第174号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年11月15日: 日刊電報通信

1919年11月15日 第204号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年11月21日: 日刊電報通信

1919年11月21日 第210号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月11日: 日刊電報通信

1919年10月11日 第170号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)