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人名
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ケーバライン, ヴィルヘルム |
予備役海軍歩兵隊卒 第6中隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, bei Photosachen (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 568).
Lager Bandô; Betreiber des Photographischen Ateliers (mit Grosse) (s. T.T.B. 07.06.1919).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
(1890-1952)
海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。
[商人]。1914年、商用でウラジオストックに赴いたところで第1次大戦が勃発し、青島のドイツ守備軍に馳せ参じた。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。2001年7月、出身地ヴュルツブルクのシーボルト博物館で、ケーバラインが板東収容所等で写した写真等で構成された「極東で俘虜となって―日本の収容所におけるドイツ人」と題した展示会が開催された。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。23歳の時、当時有名だった上記商社の社員として採用されたケーバラインは、1914年5月にシベリア鉄道でウラジオストックへ赴いた。13日ウラジオストックに着任したが、3ヶ月も経たない8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、翌2日には24時間以内の退去を命じられた。8月3日、「ホウザン丸」で敦賀に向けて出航し、6日に敦賀港に着いた。ウラジオストックとは雲泥の差の町の清潔さに、ケーバラインは郷里を思い出した。大阪、神戸に少し滞在した後上海経由で青島に志願兵として応召した。神戸滞在時、料亭で芸者がドイツの民謡「ムシデン」(Muß i denn)を歌ったことに驚いたとのことである。8月14日青島に到着し、他の10名のクンスト・ウント・アルバース商会員とともに、海軍歩兵第3大隊の兵営で最初の夜を過ごした。青島では一時総督邸の警備に当たっていた。その折、日本軍の複葉機の襲撃に遭った。1914年12月6日、松山収容所(公会堂)から郷里へ葉書を出した。それが青島包囲後数ヶ月、音信不通のため生死を心配していた両親の元への、日本からの最初の便りである。1915年1月16日、松山城から見た松山市を写した絵葉書(「松山城より兵営を望む」の文字あり)を出した。歩兵第22連隊の兵営と収容所になった公会堂が見られる。ケーバラインは所持していたコニカで、松山及び板東で多くの写真を写し、また板東ではグロッセ(Grosse)と共同で写真屋を営んだ。大戦終結して帰国後の1920年4月、マインツで一時的に仕事に就き、後に結婚することになるゾフィー(Sophie)を知る。1923年郷里に戻り、娘二人が生まれた。1929年に鉄製品の販売代理店を、1935年には消火器販売代理店を営んだ。第二次大戦時には再び応召したが、防空警察に就いた消火器販売による知識のせいであった。ケーバラインの遺品には、日記、葉書、および数多くの写真がある。1972年に鳴門市板東にドイツ館が落成すると、一部が青島戦友会を通じて寄贈されたが、他の資料は後年ヴュルツブルクのシーボルト博物館に収蔵された。俘虜送還船内で写真の注文を受けたことが、遺品の中の領収書から窺える。【この項は、メッテンライター『極東で俘虜となる』による。なお、遺品中には力士とともに写っている俘虜の姿があり、ケーバライン撮影になるとされている。撮影場所についてはいま一つ判然とはしないが、松山収容所時代と思われる。ティッテル(Tittel)の項参照】。ヴュルツブルク出身。
(2972:松山→板東)
雑誌 1919年06月07日: 日刊電報通信
ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年01月08日: 日刊電報通信
1919年01月16日: 日刊電報通信
1919年02月22日: 日刊電報通信
1919年04月19日: 日刊電報通信
1919年05月31日: 日刊電報通信
1919年11月10日: 日刊電報通信
1919年11月17日: 日刊電報通信
1919年11月24日: 日刊電報通信
1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1917年12月09日: 日刊電報通信
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