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人名
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雑誌 |
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ヴァン デア ラーン, ハインリッヒ |
海軍歩兵隊卒 第6中隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, fungierte als Dolmetscher (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 579).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
1894-1964 海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。 〔湛山堡塁〕。[商社員]。 東フリースラントのヴェーア(Weer)に生まれた。銀行業を学んだ後の1913年、神戸で商会を経営していた叔父のラムゼーガー(Hans Ramseger)の誘いで日本に来た。1914年8月8日応召して日本を離れ、青島には日本の最後通牒が発せられた前日の14日に着いた。志願兵受付所で手続きをした際の係官ハーケ(Hake)とは、互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。ゾルガー(Solger)予備少尉指揮の第3小隊に属した。戦争の当初はツィンマー(Zimmer)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いたが、その後湛山堡塁に移った。11月2日の未明4時10分前に第6中隊の湛山兵営から電話で、第2小堡塁の電信状態についての調査依頼が湛山堡塁に来ると、ラーンは進んでその任務に赴いた。 松山時代、『陣営の火』編集に際して、公会堂での厄介な雑事を引き受けて貢献した。 板東時代は、収容所倉庫での物品の受け付けに際しての通訳を務めた。大戦終結後はハンブルクの銀行の横浜支店に勤務した。1921年に松山、板東時代に一緒だったマイスナー(Meissner)が経営するライボルト(Leybold)商会に入った。1923年OAGの書記に就任したが、関東大震災の後関西に移住し、1964年4月3日に死去するまで関西で暮らした。 1945年までライボルト商会と密接なシュミッツ(Schmitz)商会で、ドイツからの機械輸入に従事した。第二次大戦後、神戸と和歌山のアメリカ進駐軍石油施設で5年間働いた後、1951年から再び機械輸入の仕事に戻った。1952年に神戸総領事館が新設されるまで、一時的に差し押さえられていた神戸ドイツ人学校の資産管理に当たった。ラムゼーガー夫妻やボーナー(Bohner)の墓もある神戸・再度山の外国人墓地に埋葬された。『チンタオの思い出』(《Erinnerungen an Tsingtau》)の回想記を残したが、それは叔父ラムゼーガーの50歳の誕生日をきっかけに、1917年12月に板東で執筆され、自身の手で装丁されたものである。1919年、バルクホールン、カイスナー、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。 (2996:松山→板東)
雑誌 1919年06月19日: 日刊電報通信
1919年02月13日: 日刊電報通信
1919年03月07日: 日刊電報通信
1919年03月11日: 日刊電報通信
1919年10月18日: 日刊電報通信
1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1917年11月01日: 日刊電報通信
1917年11月02日: 日刊電報通信
1917年12月09日: 日刊電報通信
日刊電報通信
日刊電報通信
1918年02月19日: 日刊電報通信
1918年02月24日: 日刊電報通信
1918年03月30日: 日刊電報通信
1918年05月15日: 日刊電報通信
1918年06月17日: 日刊電報通信
1918年10月14日: 日刊電報通信
1918年12月16日: 日刊電報通信
1918年12月31日: 日刊電報通信
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