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フォークト, カール |
予備役少尉 第2中隊 海軍東亜分遣隊 |
注記
Schrieb die "Vier Lieder von Karl Vogt" im Lager Kurume (s. Anzeige im T.T.B. vom 11.09.1919).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
(1878-1960)
海軍東亜分遣隊第2中隊・予備陸軍少尉。
[弁護士・弁理士]。日独戦争前、横浜市山下町75番地で法律特許事務所を開いていた。10月10日、フォークト法律特許事務所から俘虜情報局へ、俘虜氏名照会手続きについての問い合わせがあった。11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉に、通訳として参加した。また11月10日にモルトケ兵営で行われた神尾青島攻囲軍司令官とヴァルデック総督の会見では、通訳の任に当たった。久留米時代の1915年11月5日、真崎甚三郎所長によるベーゼ、フローリアン両将校殴打事件が発生した際、日本通であることからスクリーバ予備少尉とともに真崎所長とアンデルス少佐の会談に列席し、事件打開に骨を折った。フォークトは真崎と幾度も面談協議し、また俘虜将校達に対しても日本の習慣等について説明した。1916年12月から収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、更にヘルトリング(Hertling)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。1917年3月4日、収容所のオーケストラ・コンサート「ベートーヴェンの夕べ」では、「交響曲第5番〈運命〉」の指揮をした。また1918年7月9日には、ベートーヴェンの「第九」を第3楽章までではあるが演奏指揮した。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】「カール・フォークトの四つの歌」(1919年)を作曲し、演奏指導等も行い、また自身が作曲した歌曲を歌うなど、久留米の音楽活動ではレーマン(Lehmann)とともに大活躍した。大戦前から日本の民法、商法を独訳・紹介した本を数冊自費出版した。大戦終結後は東京のドイツ大使館の法律顧問をするなど、法律家として日本におけるドイツ人の権利擁護、またドイツにおける日本の権利仲介にも重要な役割を果たした。『ある日本在住ドイツ人の人生記録から』(《Aus der Lebenschronik eines Japandeutschen 》,Tokyo,1962)の著書もある。
(3772:熊本→久留米)
演奏会 のプログラム 別の収容所へ移転される戦友のためのお別れ演奏会 (1918年07月31日) 雑誌 1919年09月11日: 日刊電報通信
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