人名
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ラーハオス, ヘルマン

予備役上等掌砲兵曹補 第3中隊 膠州海軍砲兵大隊

注記 

Veranstalter der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918).
Führte die Lagerbank Bando (s. T.T.B. vom 04.04.1918).
Schriftleitung der „Baracke“ Band II.

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

海軍膠州派遣砲兵大隊第3中隊・予備火工副曹長。
徳島収容所内で発行された新聞『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)編集の中心的人物だったと推測されている。板東時代は『バラッケ』編集部員を務めた。大戦終結して帰国の際、帰国船豊福丸船内でも板東収容所から持参してきた印刷機で、船内新聞『帰国航』(Die Heimfahrt)の編集・発行に励んだ。
(4271:大阪→徳島→板東)

雑誌 

1919年06月12日: 日刊電報通信

1919年6月12日 第56号  (第7巻 vol.3 1919年6月1日~1919年8月31日)

1917年09月30日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

第1号 1917年9月30日  (第1巻 1917年10月~1918年3月:第1号 1917年9月30日~第26号 1918年3月24日)

ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

1919年4月  (第4巻 1919年4月~9月)

ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

1919年7月  (第4巻 1919年4月~9月)

ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

1919年8月  (第4巻 1919年4月~9月)

ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

1919年9月  (第4巻 1919年4月~9月)

1919年03月07日: 日刊電報通信

1919年3月7日  (第6巻 vol.3 1919年1月1日~1919年5月31日)

1919年11月17日: 日刊電報通信

1919年11月17日 第206号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年11月18日: 日刊電報通信

1919年11月18日 第207号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1918年03月17日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

第25号 1918年3月17日  (第1巻 1917年10月~1918年3月:第1号 1917年9月30日~第26号 1918年3月24日)

1917年09月14日: 日刊電報通信

1917年9月14日  (第2巻 1917年9月1日~1917年12月31日)

1918年01月05日: 日刊電報通信

1918年1月5日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年02月02日: 日刊電報通信

1918年2月2日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年02月05日: 日刊電報通信

1918年2月5日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年02月14日: 日刊電報通信

1918年2月14日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年04月04日: 日刊電報通信

1918年4月4日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年06月03日: 日刊電報通信

1918年6月3日[2]  (第4巻 1918年5月3日~1918年8月31日)

1918年08月24日: 日刊電報通信

1918年8月24日 [1]  (第4巻 1918年5月3日~1918年8月31日)