人名
| 注記 | 雑誌 |

ティーフェンゼー, フランツ

海軍歩兵隊卒 第6中隊 海軍歩兵第3大隊

注記 

坂東収容所での「中国の夕べ」の連帯主催者 (vgl. “Die Baracke” No. 10 vom 2. Dezember 1917)

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

海軍歩兵第3大隊第6中隊・2等歩兵。[独中大学講師・中国語学者]。松山時代、公会堂の収容所講習会で中国語及び数学の講師を務めた。板東収容所内印刷所から『中国礼式入門』、『商用中国語・中国事情』、『礼節指南』を出した。1917年6月21日、「中国の夕べ」で講演を行う。ドイツが戦争に負けて俘虜達が故国に帰還し始めると、ドイツで若者達の再教育をする方が中国語の勉強よりも重要だとの考えに至った。帰還船がインド洋上にさしかかった時、ティーフェンゼーは貴重な草稿類を全て海中に放り投げてしまった。ドイツ帰国後の1920年、『東亜評論』に「日本で俘虜となって」の文章を寄稿した。
(3143:松山→板東)

雑誌 

1917年12月02日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

第10号 1917年12月2日  (第1巻 1917年10月~1918年3月:第1号 1917年9月30日~第26号 1918年3月24日)

1919年04月23日: 日刊電報通信

1919年4月23日  (第6巻 vol.3 1919年1月1日~1919年5月31日)

1919年07月06日: 日刊電報通信

1919年7月6日 第81号  (第7巻 vol.3 1919年6月1日~1919年8月31日)

1919年07月26日: 日刊電報通信

1919年7月26日 第101号  (第7巻 vol.3 1919年6月1日~1919年8月31日)

1919年10月08日: 日刊電報通信

1919年10月8日 第167号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月11日: 日刊電報通信

1919年10月11日 第170号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月14日: 日刊電報通信

1919年10月14日 第172号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月16日: 日刊電報通信

1919年10月16日 第174号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月24日: 日刊電報通信

1919年10月23日[訂正24日] 第181号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年10月25日: 日刊電報通信

1919年10月25日 第182号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1919年11月11日: 日刊電報通信

1919年11月11日 第200号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1917年06月25日: 日刊電報通信

1917年6月25日  (第1巻 1917年4月18日~1917年8月31日)

1917年09月05日: 日刊電報通信

1917年9月5日  (第2巻 1917年9月1日~1917年12月31日)

1917年09月28日: 日刊電報通信

1917年9月28日  (第2巻 1917年9月1日~1917年12月31日)

1917年09月30日: 日刊電報通信

1917年9月30日  (第2巻 1917年9月1日~1917年12月31日)

1918年03月26日: 日刊電報通信

1918年3月26日 [1]  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)

1918年04月30日: 日刊電報通信

1918年4月30日  (第3巻 1918年1月1日~1918年4月30日)