Verpflegung
菓子屋ゲーバ
| 設立の経緯
| 製品の販売
| 美術工芸展覧会
『ディ・バラッケ』紙の最終号には、板東収容所の菓子屋ゲーバの発展を回顧する記事が掲載されている(1)。それによるとゲーバの設立の発端は松山収容所であり、その収容部であった山越の寺院において1915年12月1日にマウラーという名の捕虜がドイツ式の菓子店を開店したことにさかのぼる。これは収容所の捕虜たちの多くの希望にもとづくものであった。ドイツ人にとって日本側の配給食は少なすぎるように感じられ、また日本人業者から購入することができるカステラや、「素早く空腹を満たす食べ物『装甲板』(おそらく煎餅かあられであろう)」(2)は、ドイツ人捕虜の嗜好に合わなかったのである。原料調達の困難さはあったが、この菓子屋は繁盛した。作った品を他の収容部に回すことは禁じられていたが、この規則が守られないこともあった。しかしこれに関しては、記事からうかがい知ることはできない。そののち各地の収容所が板東収容所に集められたことにより、他の収容所にいた専門の菓子職人たちの協力を得ることが可能となった。こうして1917年5月25日、ゲーバは板東収容所において開業したのであった(3)。営業時間は当初は7時から16時まで(4)、その後11時30分から15時までに短縮された(5)。「ゲーバ」という店名は、板東俘虜収容所を意味する「ゲファンゲネンラーガー・バンドウ」の略である。当初は菓子屋を意味する「コンディトライ」の語を前に付けて「コゲーバ」と称する予定であったが、開店予告をする際に最初の一字をうっかり忘れてしまい、ただの「ゲーバ」として通用するようになったものである(6)。当初は第2厨房の裏に店舗を構えていたが、製パン所付属倉庫建設のために立ち退きを余儀なくされた。新たにタパウタウ地区に、建物ごと移転したゲーバの店については、以下のスケッチが残っている。
移転した場所に、新たにオーブンを設置しなければならなかった。それは6台目のオーブンであった。1918年には、このオーブンは7台目のものと取り替えられている。ゲーバではもともと、二人の人が働いていたが、収容所が解散された時には、従業員は8人にまで増えていた。原材料の値段が絶えず上昇しつづけたことは、経営者達にとっての大きな問題であった。トルテを例に挙げる。トルテの材料の値段は、3.60円から徐々に8.75円へと値上がっていった。しかし記事の執筆者は、今もなお「大きなひと切れのケーキが5銭で」手に入ることを称賛している。(7)
「ゲーバ」の人気がいかにすさまじいものであったか、同店が板東で開業していたあいだだけで合計小麦36250キログラム、卵131000個を消費したと聞けば(8)、想像できよう。その製品は収容所内で消費されるだけにとどまらず、贈答品として発送された。『ディ・バラッケ』紙の見積もりによれば、日本各地や中国に送られた(とりわけ祝祭日に)ゲーバの製品は、胡椒ケーキが500キログラム、マジパンが200キログラム、シュトレンは120キログラムにおよんでいる(9)。ゲーバの焼き菓子はクリスマスなどの贈り物として大変な人気があり、1918年のクリスマスには、こうした贈答品の予約注文が殺到したため、その処理に追われたゲーバは収容所内でクリスマス用のお菓子を販売することができなくなってしまったと、『ディ・バラッケ』紙の「収容所漫筆」は残念そうに伝えている(10)。1919年秋の捕虜たちの本国帰還の際も、ゲーバは故郷への土産用として「蜂蜜ケーキ、レープクーヘン、小型のプフェッファークーヘン(クリスマス用クッキーの一種)」(11)および「マジパンのばら売り」(12)の注文を受け付けた。値段は焼き菓子の場合1ポンド95銭、マジパンは1個1円60銭となっていた。
製品の販売は店舗で行われていた。そこにどのような品が並んでいたのか、『日刊電報通信』に載った広告から再現してみよう。「シュネッケ(渦巻きパン)とブレッツェルは1個5銭、クロワッサンとケンメは1個6銭、ジャム入り揚げパンとラーダークーヘンは1個6銭、焼き菓子第1類(リーフパイ、チョコレートがけケーキ、アップルケーキ、ミニバタークリームタルトなど)は1個につき10銭、リング状の大型ケーキは1切れ50銭、すり鉢形の型で焼いたスポンジケーキ1切れ70から1円40銭、トルテは1個2円50銭から、一切れだと20銭。棒状のチーズクラッカー1個6銭、塩味の棒パン同じく5銭、クッキー5個で10銭」(13)。このほかライ麦パンも売られていた(14)。
ゲーバの販売人「美味しいよ屋」と思われる. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 71-25
俘虜たちは、購入品をとても大事に扱っていた。「以前だとこの時間には北から沢山の人がやって来て、紙に包まれた何かを丁寧に手に持っていることから、彼らがゲーバ・ベーカリーで買い物をしてきたことが分かるのだった。ゲーバが逸楽郷を追われて、郊外のタパオタオの客人りの悪さをいくらかでも挽回しようと、あの町から食欲をそそる名前の根拠の大部分が奪ってからは、例の丁寧に扱われる紙包みが逆の方向に動いていくのを見るようになった。」(15)
店舗売りだけでなく巡回販売もあった。バラックを回ってゲーバの商品を売り歩く売人は、「美味しいよ屋」というあだ名で知られていた。彼は『ディ・バラッケ』紙にしばしば登場する。「時には白い服の丸っこい姿をした男が道を転がってきて、バラックのドアを無理やり押しのけて通る・するとまもなく『美味しいよ、美味しい物が来たよ』と煽り立てるような呼び声が響く。すると何人かは収容所の食事の単調さを一個のケーキで破るために、最後の5ぺニヒの用意をする。」(16)
「美味しいよ屋が来たぞ」. Muttelsee, Willy, Karl Bähr. 4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung. Bando: Kriegsgefangenenlager, [1919], o.S.、鳴門市ドイツ館所蔵
おそらくゲーバ店内でのケーキの販売の様子. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 71-24
藤田只之助宛てに発行された許可証 . 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 1-2-26
本国帰還の日が近づくと、ドイツでの生活物資欠乏のニュースを聞きつけたある書き手は、『ディ・バラッケ』最終号のなかで、多くの者はやがて板東での食物がいっぱいに並んでいた食卓を悲しく思い出すことになるだろうと予言する。「そして我々が空きっ腹をかかえて眠りにつけないでいるとき、我々の脳裏をめぐるであろう愛すべき想い出の数々には、きっと真っ先にあの男の姿が出てくるだろう。『美味しいよ屋』が、ゲーバの品物が山と積まれたトレイを担いでいる、あの姿である。この収容所でゲーバほど、我々の捕虜生活の日々を甘いものにしてくれたものはなかった」(17)。
菓子屋ゲーバは、今日もなお板東の周辺地域にその名残をとどめている。松江大佐の名前で発行された許可証から、藤田只之助という日本人が、ゲーバの店員であったハインリヒ・ガーベルについて半年間製パンの技術を習っていたことがわかる(18)。その後、藤田は徳島市でパン屋「独逸軒」を開店し、ドイツ風のパンやケーキを売った。藤田は習得した製パンの技術をその後自分の弟子たちに伝えた。鳴門市には今も独逸軒の名を受け継いだパン屋があり、ドイツパンを作り続けている。
徳島市のパン屋「独逸軒」. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 59-9
「俘虜製作品展覧会」における「ゲーバ」製作品. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 52-31
1918年3月に開催された「俘虜製作品展覧会」にはゲーバも参加し、参加部門の1等賞を受賞している。『バラッケ』の記事によれば、「『ゲーバ』の 展示 (Quグループ、第1位) は、子どもの夢が実現のような気にさせる。そこにあるのは、われわれが子どものころ憧れたような胡椒入りのお菓子で作った家で、屋根には巧みに砂糖で形どったコウノトリの巣があり、同じく砂糖だけでできた垣根もついている。この家同様にすばらしいく飾り付きのバウムクーヘン、ドイツのウエディングケーキ、さまざまなトルテも作られている。」(19) ゲーバの出品した品々は、展覧会来訪者から高い評判を得た。ゲーバの屋台がある「食品」部門の区画は「終始一貫一番混み合っていた」(20)。展覧会場の配置図によれば、ゲーバの製品は、霊山寺の本堂のすぐ脇に設置された屋外喫茶室の売店でも販売されていた(21)。その売店では「美味しいよ屋」がさかんに売り口上を述べたてて、ゲーバの製品を売り込んでいた(22)。
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