Verpflegung
蜂蜜
何人かの捕虜たちは養蜂に取り組んでいた。1918年の夏のこと、養蜂家と菓子屋「ゲーバ」の経営者との間でいさかいが生じた。八がパン屋の営業の妨害をしているというのである。「蜜蜂は新しい『ゲーバ』道を使わなくてもゲーバへ行く道を見つける。おそらくそこで『ビーネンシュイティヒ』[蜂の一刺しを意味する菓子の名前]に人気が高いのをよく知っているのだろう。甘いお菓子の間を飛び回って、食べ物を探している。ゲーバの人たちは困り顔だ。その中の一人が言うには、『自分で餌を与えられないのなら、蜜蜂を飼っちゃいけないよ』。しかし収容所内で養蜂をしている者の誰もそんなことはないと言い、誰もが自分たちの蜜蜂はきちんと飼っていると誓っている。この歓迎すべからざる客の尻尾に、小麦粉をふりかけてみるといいかもしれない。そうすれば養蜂箱を洗いざらい調べることで、泥棒たちのすみかがどこなのか直ぐに突きとめられるだろうし、犯人の養蜂者に関係する商品に対する勘定書を送りつけることができるだろう」(1) ここから生産された蜂蜜がどの程度、収容所内で販売されたのかどうか、残された出版物からは知ることはできない。
「畑仕事と家畜の栽培」 . Muttelsee, Willy, Karl Bähr. 4 1/2 Jahre hinter’m Stacheldraht. Skizzen-Sammlung. Bando: Kriegsgefangenenlager, [1919], o.S.、鳴門市ドイツ館所蔵
『日本・板東俘虜収容所案内』によると、バラッケ第2棟6号室のオーレンが、蜂蜜販売業者として名前を挙げられている(2)。彼は収容所外から蜂蜜を仕入れていた。『日刊電報通信』に掲載された広告には、「新規入荷」の語句がよく見られるからだ(3)。1918年6月から10月の間に、彼の売る蜂蜜の価格は1ポンド50銭から60銭に値上がりした(4)。1919年には、捕虜たちはリストという名の捕虜を介して2度にわたり、北海道産の蜂蜜を土産用に購入する機会があった。
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