人名
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ベルリーナー, ジークフリート

曹長補 第7中隊 海軍歩兵第3大隊

注記 

Hielt div. Vorträge, z.B. ab Mai 1917 in Bandō über Finanzierung von Aktiengesellschaften (vgl. „Die Baracke“ No. 10 vom 2. Dezember 1917).
Veröffentlichte bei der Hahns'schen Buchhandlung, Hannover die Werke "Organisation und Technik des Import-Geschäfts in China" und "Organisation und Technik des Import-Geschäfts in Japan" (s. T.T.B. vom 24.11.1919).

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

海軍歩兵第3大隊第7中隊・予備副曹長。[東京帝国大学法科大学教師]。
1884年2月15日ハノーファーに生まれた。
1902年ハノーファーの実科学校を卒業し、同年から1906年までライプチヒ大学およびゲッチンゲン大学で数学、経済学、物理学を学んだ。
1905年ゲッチンゲン大学から経済学博士の学位を授与された。
1906年にプロシア高等教員試験に合格した後、翌年まで兵役に就き、除隊後アメリカを旅行した。帰国後ライプチヒの公立商業学校で教務事務の仕事に就いた。
1908年ライプチヒ大学講師、1909年ライプチヒ高等商業学校で保険数学、統計学および商業経営学の講義を担当した。
1913年4月に東京帝国大学法科大学教師として来日したが、第1次大戦勃発により1914年8月応召して青島に赴いた。
1914年10月8日、山川健次郎東京帝国大学総長から俘虜情報局に、ベルリーナー安否の問い合わせが文書で寄せられた。
丸亀収容所時代の1915年1月25日、夫人より東京収容所への収容所替えの申請が俘虜情報局に出されたが不許可となった。
板東時代、郡役所で郡長以下の職員及び小・中学校長に講演、徳島商工会議所では「大戦と世界経済の展望」と題して講演を行った。
1917年5月23日、「株式会社の資金調達」という題目で講演を開始する。
1923年2月1日から3ヶ年契約で東京帝国大学に再雇用された。
1925年帰国して、38年までライプチヒのドイツ=ロイド生命保険会社に重役として勤めた。また1927年からはライプチヒ商業大学教授を兼任した。
1938年アメリカに亡命し、翌1939年にはワシントン特別区のハワード大学教授となり、シカゴなどの保険会社の重役も兼務した。
1952年に名誉教授となり、1961年にオレゴン州で没した。著書に『日本の輸入貿易の組織と経営』(Organisation und Betrieb des japanischen Importhandels,Hannover,1920)等がある。
【『欧受大日記』、『来日西洋人名事典』、松尾『来日したザクセン関係者』等より】(1841:丸亀→板東)

演奏会 のプログラム 

第2回室内楽の夕べのプログラム (1917年02月18日)

雑誌 

1917年12月02日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞

第10号 1917年12月2日  (第1巻 1917年10月~1918年3月:第1号 1917年9月30日~第26号 1918年3月24日)

1919年11月24日: 日刊電報通信

1919年11月24日 第213号  (第8巻 vol.3 1919年9月1日~1919年11月29日)

1917年07月06日: 日刊電報通信

1917年7月6日  (第1巻 1917年4月18日~1917年8月31日)

1918年06月29日: 日刊電報通信

1918年6月29日  (第4巻 1918年5月3日~1918年8月31日)

1918年09月20日: 日刊電報通信

1918年9月20日  (第5巻 1918年9月1日~1918年12月31日)

1918年11月03日: 日刊電報通信

1918年11月3日  (第5巻 1918年9月1日~1918年12月31日)