Verpflegung

アルコール飲料

 
 
ビールリキュール類と蒸留酒

水晶宮、ボウリング場付属食堂、士官用カジノ、「家具運搬車亭」、そして酒保以外にも、ビールを売る個人の営業者がいた。『日本・板東俘虜収容所案内』によるとバラッケ内に住むその数は13人にも達している (1)。どうやら需要は非常に大きかったらしい。ある業者は『日刊電報通信』に次のような広告を載せている。「親愛なる板東のビール愛好家の皆さん!毎晩10時までは皆さんの喉の渇きをいやすため、いついかなる場合でもお役に立つ所存です。さりながら私の基本姿勢を申しますれば、10時をすぎてしまった場合は、いかなる方が飲み物をご所望になられようと、容赦なく放置させていただきますので、どうかそのつもりで。ムックス、第5号棟」(2)。別のある捕虜は、『日刊電報通信』紙上で、次のような苦情を書いている。「これ以上の間違いがおこらないよう、ここにお知らせいたします。私の部屋は酒場ではありません。以上。ボルンマン、第5号棟1号室」(3)

 
 

 戦争終結後、捕虜のドイツ本国帰還のための交渉がなかなか進展しない状況の中、収容所内の雰囲気はますます落ち着かないものになっていった。捕虜たちの苛立ちは、アルコール消費の増大となってはね返った。「現在の状況に直面して、我々のほとんどの者は、心の底から消耗しきってしまっている。何もかもうんざりしてしまっていることが、我々のぼんやりした態度や労働意欲のなさにはっきりと現れている。何人かの者はせいぜいこう言って気分を盛り上げるのがやっとの有様だ。『今回が俺にとって最後の防災警備員の仕事だったらなあ』と。もう一人、我々が話を聞いたある悲観主義者は、戦争捕虜であることの心のうちを余すところなく表現してみせた。『こんちくしょうめ! 俺は昨日12時まで非番だったのに、時間をうまく使えなかったぜ。10時には酔いつぶれちまったんだ』。(...)これまでにこういうことがあっただろうか? ある大尉は、ついこの前まで営倉に入れられていたある捕虜に向かって、教会祝日のための休暇を許可してやる際に『ちゃんと酔いつぶれるんだぞ』と言ったという。これ以上に信心深い注意の文句はまずあり得ないだろう。5年間の勤務のあいだ、非の打ち所のない態度であったことを証明されているような者までが、時にはしたたかに酔っぱらうことが、最近ますます目につくようになってきた。営倉送りになる者がますます増えてきたことは何ら驚くに値しないし、収容所内で商売を営んでいる者が、ちょっとの不在時にも留守番を頼まなければならなくなったのも当然である。(...)この前の復活祭の日曜日には収容所のビールが一滴も無くなってしまったという話だ。これまで我々のところで最高に静かに祝われた祭日が、今回の復活祭であった。これはどうしたことだろうか。捕虜たちが「ゴミを捨てるため」と称して家屋に侵入したり、大酒宴をやらかしたあとあちこちで酔いつぶれて転倒したりしたために、立て続けに懲罰が行われた。そのあげく、このようなことが繰り返されるならば、酒保を閉鎖するぞという恐ろしい脅しが行われたが、あの最近の特別命令のせいなのであろうか。それとも、比較的静かだったのは、第3次の寄付金がまだ届いていないためであろうか」(4)

 
 
 

衛兵による「現行犯逮捕」. Muttelsee, Willy, Karl Bähr. Nachtrag zu 4 1/2 Jahre hinterm Stacheldraht. Bando: Kriegsgefangenenlager, 1919, o.S.、鳴門市ドイツ館所蔵

 

化学実験室およびハイルという俘虜は、さまざまなリキュール類や蒸留酒を提供していた。実験室には薬草酒の「板東ボーネカンプ」「選帝候」「修道院」「ダンツィガー・ボーケ」、ペパーミントやショウガのリキュールがあった(5)

 

ハイルのところではベルガモットのリキュールや、ジン、キュンメル入り火酒といった蒸留酒が手に入った。リキュールは大瓶が2円、小瓶が1円10銭であり、蒸留酒の方は1瓶で1円30銭であった。ハイルのつくった製品は、バラッケ第7棟に住むシュラーも販売していた(6)

 
 

1919年2月に、赤ワイン120本、ラム酒12瓶におよぶ酒類の大売り出しがあった。これはそもそも、大晦日に飲むポンチを作るためのものであった。しかし他のアルコール類と同様に、捕虜たちの寄付によって購入された赤ワイン樽の到着が遅れてしまったため、赤ワインとラムをそれぞれ1瓶につき70銭と2円90銭で販売することが決定された(7)。売り上げ金は、全員の利益になるよう収容所厨房に寄付され、その金額で肉や魚を買うこととされた。捕虜生活が終わりに近づいたころ、リストとハウンはさらに、カカオリキュールを瓶の大きさに応じて、それぞれ50銭、1円、1円80銭で売りに出した。ドイツへ持ち帰るための予約注文も受け付けられた(8)

 

(1) Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando, Japan. 1918, S. 7-9, 23-26
(2) T.T.B. Bd. 7, 15. August 1919, No. 120, S. 4
(3) T.T.B. Bd. 8, 24. November 1919, No. 213, S. [4]
(4) Die Baracke, Bd. 4, April 1919, S. 140-142
(5) T.T.B. Bd. 6, 10. Mai 1919, No. 23, S. [8]
(6) Die Baracke Bd. 4, Juni 1919, Innenseite vorderer Umschlag
(7) T.T.B. Bd. 3, 27. Februar 1918, S. [1-2]
(8) T.T.B. Bd. 8, 7. Oktober 1919, No. 166, S. [4]