Verpflegung

家畜の飼育

 
 

捕虜たちの多くが、食料にしたり卵を手に入れるために小型の動物を飼っていた。1918年11月1日の調査によればその内訳は次の通りである(1)

1008 (半数以上が個人飼育)
282
鵞鳥 30
七面鳥 30
75
アナウサギ 51


このほかさらに捕虜たちが共同で飼育し、収容所から出る残飯を餌にしていた「収容所の子豚ちゃんたち」(2)がいた。1919年の9月には献金を募って子豚10匹が購入され、食べ頃になるまで飼育された(3).

 

家畜の飼育. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 71-29

 

捕虜が個人で家畜を飼おうとすると、その餌やりは大仕事の連続だった。家禽を飼っている農夫たちは鶏の餌用としてホウレン草やキャベツを栽培していた(4)。また自分の家畜を牧草地へ連れて行くものもいた(5)。「カエルすくい」すなわちカエルを捕まえることは一種のスポーツとして好まれ、犬や猫さえも家畜の餌にされてしまった(6)。また餌にする植物を収集する格好の機会として遠足が利用された。「このような遠足の際には、ウサギ飼いの人を見ていると面白い。ほかの人が美しい自然に夢中になり、うっとりと山や谷や青い海を見つめているのに、彼は死物狂いで地面を見つめているのである。彼は目つき鋭く緑の茎を見つけると、確かな手つきですばやくそこに手をやる。するともう大きな食料入れの中に草は消え去るのである。」(7)

 
 

鶏の小屋. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 39-3

家禽の飼育に情熱的に取り組む者が大勢いたことは、『ディ・バラッケ』の次の文章から読み取れる。「そうだ、養鶏場の春の日ざしの中でまどろみ、雄鶏とかれのハレムとのいそがしい求愛の行動について思いめぐらす時、俘虜の心清を包むあの甘い夢みるような状態をまだ一度も知らない人は、鶏について共に語ることは出来ない。この幸せな休息の状態な[鶏の妖術」と呼びたい、それは仏教徒の涅槃に通じるものがある。そのあと再び目覚めると、こころは卵付き朝食、ローストチキンなどの希望で喜びに満たされる。」(8)家禽を飼う者の数は次第に増えていった。「4週間ほど前から収容所の大勢の住民が家禽の世話をすることにとりつかれたように熱中している。鶏を飼っていた何人かの者が卵に恵まれたことがまるで伝染病の病原菌のように作用したのだ。酒飲みでいつも千鳥足の者や、まじめで本の虫のような人は生来こうした気まぐれとは無縁のはずだが、今回だけはこの病気から逃れるすべはなかったようだ。腰を据えて飲み続けたり、じっくり本を読みふけったりする代わりに、いまや彼らは鶏小屋にはいつくばったり、家鴨や鵞鳥を草地に連れ出したりに夢中になっている。」(9)

借り上げ地の中で鶏小屋のある一角は音楽練習をする人びとにも利用されていた。「鶏の国民調査」と題する記事にはこうある。「小屋で飼われているこれら1476羽の動物には、 コケコッコーともガァーガァーとも鳴かず、ひたすらヴァイオリンとオルガンを悩ますの動物は数に入っていない。もしいま飼料不定から小屋が空っぽになれば、鶏地区はさらにやかましくなるだろう。」(10)『日刊電報通信』には以下のような広告が載った。「注目! 大きな新築の鶏小屋あります。窓7カ所、楽園的環境、オゾンたっぷりの空気、音楽好きの方に安く貸します。毎日新鮮な卵、若鶏料理付き。子細は4号棟114番、同85番、82番まで」(11)。肥育用の豚の購入に当たって収容所当局が下した決定は家禽の飼育者にとっては不利なものだった。厨房から出る残飯は豚にのみ餌として与えるべしという内容だったからである(12)

 
 

鶏の小屋. 鳴門市ドイツ館所蔵の写真:ネガ番号 35②-34

 
 
 
 

(1) Die Baracke Bd. 3, No. 6 (59), 10. November 1918, S. 122
(2) 『ディ・バラッケ』第3巻第6(59)号1918年11月10日p.85
(3) T.T.B. Bd. 5, 30. September 1918, S. [4]
(4) Die Baracke Bd. 2, No. 1 (27), 31. März 1918, S. 26
(5) Die Baracke Bd. 4, Juni 1919, S. 109
(6) Die Baracke Bd. 4, Juni 1919, 110
(7) 『ディ・バラッケ』第3巻第24(77)号1919年3月16日p.376
(8) 『ディ・バラッケ』第2巻第1(27)号1919年3月31日p.18
(9) Die Baracke Bd. 4, Juni 1919, S. 109
(10) 『ディ・バラッケ』第3巻第6(59)号1918年11月10日p.85
(11) T.T.B. Bd. 5, 18. September 1918, S. 3
(12) T.T.B. Bd. 5, 5. November 1918, S. [3]