人名
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バールト, ヨハネス

海軍歩兵隊卒 第7中隊 海軍歩兵第3大隊

以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。 

(1891-1981):海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[商社員]。
1912年6月、ベルリンに本社を置く貿易商社アルンホルト・カルベルク商会(Arnhold,Kalberg und Co.)の広東支店に応募して採用され、8月13日広東に着任した。珠川の中州の沙面島(英仏共同の租界)ではオスカール・マイ(May)と中国人街を好んで散策した。2年間の広東暮らしの後、大戦の勃発により1914年8月初め青島に向かい、7日到着した。板東時代、収容所病院の一室でA.ヴェルナー(Wernerと同室で過ごした。大戦が終結して1920年1月、歯科医師前田氏の紹介で神戸の内外貿易に勤めた。ブレーメンに一時帰郷の後東京で貿易商となり、千代夫人と結婚する。1941年、商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中独ソ戦が勃発して一時捕虜となるが、釈放されてドイツに帰還した。しかし日本には戻れず4年間家族と離れ、映画会社に勤務した。1945年特殊任務を帯びて、日独間を往復していた潜水艦イ29号でシンガポールに到着、軍用機で日本に戻った。終戦後アメリカ進駐軍により財産没収、ドイツへ強制帰国させられた。5年後再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ。『鎌倉時代の歴史と文化』、『日本演劇の歴史』等及び『青島日記』(Tsingtau Tagebuch)、『極東のドイツ人商人』(Als deutscher Kaufmann in Fernost.OAG Tokyo)の著書がある。ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の副会長を務めた。
(1851:丸亀→板東)

雑誌 

1919年01月18日: 日刊電報通信

1919年1月18日  (第6巻 vol.3 1919年1月1日~1919年5月31日)

1919年05月12日: 日刊電報通信

1919年5月12日 第25号  (第6巻 vol.3 1919年1月1日~1919年5月31日)