注記
Wird im Rahmen der "Ausstellung für Bildkunst und Handfertigkeit" im Lager Bandō im März 1918 genannt, als Leiter einer Lagerkapelle (s. "Die Baracke" No. 25 vom 17. März 1918, S. 576).
Reichte Urlaubsgesuch nach Shanghai ein (s. T.T.B. vom 08.11.1919).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
海軍歩兵第3大隊第7中隊・2等歩兵。 [上海居留地工部局音楽隊員]。 ヴァイオリン奏者。隊長はハンス・ミリエス(Millies)であった。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス(Gareis)及びプレフェナー(Profener)は非戦闘員なので解放せよ、との申し入れがあるとの親書が出されたが、軍籍があることから不許可になった。 丸亀時代の1915年に「エンゲル・オーケストラ」を結成した。1917年板東に移された後、松山からの俘虜を加え団員は45人になった。1番札所の霊山寺等で練習し、やがて遍路宿で地元の青年達に楽器のてほどきをした。板東では17回の演奏会、3回のシンフォニー、2回の「ベートーヴェンの夕べ」で指揮を執った。松江豊寿所長の理解もあって徳島市内で出張指導をするようになり、「エンゲル音楽教室」とでも言えるものを開設した。当初場所は公会堂であったが、やがてメンバーの一人であった立木真一の自宅、立木写真家の2階に練習場を移した。 エンゲルの帰国に際しては、徳島の一流料亭「越後亭」で何度も送別の宴が開かれた。『青島の戦士』や『シュテッヒャー大尉行進曲』を作曲し、またラムゼーガー(Ramseger)【ラーン(Laan)の項を参照】作曲の『忠臣蔵』の指揮・演奏もするなど、ハンゼン軍楽曹長とともに、板東収容所での音楽活動では多大の功績を果たした。 (1880:丸亀→板東)
演奏会 のプログラム 板東における第2回演奏会 パウル・エンゲル指揮 (1917年06月03日) 板東における第3回演奏会 パウル・エンゲル指揮 (1917年07月08日) 第1回シンフォニー・コンサート 1917年12月9日 パウル・エンゲル指揮 健康保健組合のため (1917年12月09日) 板東における第8回演奏会 パウル・エンゲル指揮 [ヴァージョンA] (1918年02月17日) 板東における第8回演奏会 パウル・エンゲル指揮 [ヴァージョンB] (1918年02月17日) 歌曲の夕べ ピアノ・リュート伴奏による歌曲。朗読。バイオリン・ピアノ・ソナタ (1918年12月29日) エンゲル・オーケストラのソロ・コンサート 1918年1月19日 7時 (1919年01月19日) ウィーン・アンサンブル 第1回演奏会 指揮者:パウル・エンゲル (1919年02月08日) エンゲル・オーケストラ 第3回シンフォニー・コンサート ベートーヴェン (1919年02月22日) エンゲル・オーケストラ 第15回演奏会 指揮者:ヴェルナー 後備副曹長 ソリスト:P.エンゲル海軍2等歩兵 (1919年05月18日) MAKオーケストラ・エンゲル・オーケストラ 第2回共演コンサート 指揮者:パウル・エンゲル海軍2等歩兵 (1919年11月30日) エンゲル・オーケストラ 第2回シンフォニー・コンサート ハイドン・ベートーヴェン (1918年04月28日) 皇帝陛下ヴィルヘルム2世の誕生日に際して1917年1月28日日曜日のプログラム (1917年01月28日) 第2回室内楽の夕べのプログラム (1917年02月18日) 丸亀俘虜収容所オーケストラの演奏会 (1917年03月18日) モルトレヒト男声合唱団歌曲の夕べ エンゲル弦楽オーケストラ、ウィーン・アンサンブル共演 (1918年10月20日) 演奏会 のプログラム ハインリヒ・フォン・クライスト作「こわれがめ」 (1918年04月04日) LABEL_SONSTV 第1回シンフォニー・コンサートの解説 1917年12月9日 パウル・エンゲル指揮 雑誌 1918年10月06日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年11月03日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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1917年12月16日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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1918年01月13日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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1918年05月26日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年06月16日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年07月14日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1918年08月04日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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1918年10月27日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
1919年01月26日: ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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ディ・バラッケ。板東俘虜収容所新聞
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