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人名
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注記 |
雑誌 |
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メラー, ヴィルヘルム |
予備役海軍歩兵隊卒 第7中隊 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Lager Bandô, 1/25.
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。
[上海・テルゲ・ウント・シュレーター商会(Telge & Schroeter)]。【メラーの以下の足跡は、息子のアードルフ・メラー(Adolf Meller)氏の後記文献に依拠した】。大戦勃発後の1914年8月6日、上海から鉄道で南京、済南と乗り継ぎ、青島に向かった。上海からの列車には、「マルコ・ポーロ号」乗員のイタリア人8人が乗り込んでいた。内一人はフランス語を話し、彼の言によれば北京に赴き、そこから青島に向かって「プリンツ・アイテル・フリードリヒ号(Prinz Eitel Friedrich)」に乗り組むとのことであった。メラーは8月8日正午過ぎ青島に着き、翌日身体検査を受けた。軍医からは極度の近視で、かつ右目の瞳孔が右上部にずれているとの診断を下された。当初は第6中隊に配属されたが、戦闘後に第7中隊へ配属換えになった。9月下旬のある夜、小さな穴に落ちて足を怪我したが、それでも3週間あまり戦闘勤務に就いた。やがて足が膨れ上がり、10月20日総督府衛戍病院に運ばれたが、日本軍の攻撃のため衛戍病院は閉鎖されていて、補助病院となっていたプリンツ・ハインリヒ・ホテルにすぐに移された。11月1日の午後遅く、一時日本軍の砲撃が止むと、新鮮な空気を吸うために、上海からの知り合いであるシュレーゲル(Schlogel)予備伍長とともに衛戍病院裏の丘に登った。二人はオーストリアの軍艦カイゼリン・エリーザベトが自沈するのを目撃した。11月12日に沙子口から貨物船「福洋丸」で日本に向かった。朝日ビール2本に船内では1ドル支払った。多度津から丸亀までは二列になって行進させられたが、メラーはシュナイダー(Eugen Schneider)伍長と並んで歩いた。丸亀収容所では中国語のグループ授業に参加した。その折の授業風景と本を積み重ねた机の前に座るメラーの写真が遺されている。板東収容所に移ってからも中国語の勉強を続けたが、ある時軍医から眼をいたわらないと失明する恐れがあると言われ、以後中国語の勉強をあきらめて、出来るだけ屋外の緑に眼を向けるようにした。そんなことから伐採の仕事には積極的に参加した。メラーの1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある。メラーは板東収容所で発行された新聞『バラッケ』や、送還船「豊福丸」内で発行された新聞『帰国航』を保存して遺した【メラー『青島守備軍の運命』より】。ボルンシュテート(Bornstedt)出身。
(1998:丸亀→板東)
雑誌 1919年06月07日: 日刊電報通信
1919年02月12日: 日刊電報通信
1919年02月14日: 日刊電報通信
1919年03月25日: 日刊電報通信
1919年04月10日: 日刊電報通信
1919年09月18日: 日刊電報通信
1919年09月21日: 日刊電報通信
1919年09月24日: 日刊電報通信
1919年09月25日: 日刊電報通信
1919年10月01日: 日刊電報通信
1919年10月20日: 日刊電報通信
1919年11月01日: 日刊電報通信
1919年11月11日: 日刊電報通信
1919年11月14日: 日刊電報通信
1919年11月15日: 日刊電報通信
1917年12月09日: 日刊電報通信
1918年07月13日: 日刊電報通信
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