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人名
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モーア, フリードリッヒ・ヴィルヘルム |
予備役少尉 海軍歩兵第3大隊 |
注記
Wurde im August 1918 vom Lager Kurume ins Lager Narashino verlegt (s. T.T.B. vom 07.09.1918).
Leiter des Arbeitsausschusses des im September 1919 gegründeten Zweigverbandes Narashino zum Zweckverband Bando (s. T.T.B. vom 24.09.1919).
以下の伝記データは、高知大学・ 瀬戸武彦教授のデータに基づくものです。
(1881-)
海軍歩兵第3大隊・予備歩兵少尉。
ライン河畔ノイヴィート(Neuwied)郡のエンゲルス(Engers)に生まれた。1895年からノイヴィートのギムナジウムに通い、1903年から7学期間ボン、ベルリン、マールブルク大学で法律を勉強した。ベルリンでは2年間中国語を学び、修得した。1906年9月、カッセルの地方上級裁判所の1審判事補試験に合格し、その年の10月1日、ケルンのライン第5師団第65歩兵連隊に1年志願兵として応召した。1907年4月1日、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に配属された。さらに同年4月26日膠州へ派遣され兵役義務終了後、膠州総督府の司法官試補兼通訳官となる。1911年に『膠州保護地便覧』(《Handbuch fër das Schutzgebiet Kiautschou》,Tsingtau 1911)を編纂・出版した。1912年3月予備歩兵少尉に編入され、1913年6月4日財政通訳官に任じられた。同年6月6日、マールブルク大学での博士取得口述試問に合格。学位論文は『中国における諸租借地』(《Die Pachtgebiete in China》, Leipzig 1913)であった。その後総督府勤務を離れて、省都済南所在の中国山東省製塩公司監督官となった。久留米収容所時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。大戦終結して帰国後、1920年から1921年まで法務省のベルリン移住局に勤務し、1922年からはハンブルク=ブレーメン東亜協会の事務局長を務めた。
(3508:熊本→久留米→習志野)
雑誌 1919年09月24日: 日刊電報通信
1918年09月07日: 日刊電報通信
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